その店は、サーファー用のTシャツなどを売っていた。
「ここ、俺の仕事場。奥の方にボードも有るけど、みる?」
内心『私をサーファーと思っているのかしら?』と思った瞬間、
「あなたは関係ないとはわかるけどさ!ちょっと見てもらおうと思ってね」
と奥のボードを立て掛けているまた奥に進んだ。
そこは中庭のようになっていて、真ん中に作業台のような大きな机と木屑やペンキの缶が散らばってあり、片隅には、ボロボロのボードが積み重ねられていた。
そのボードのそばに私を連れて行き、「においかいでみて。」
言われるままににおいを嗅いだ瞬間、むかつくような臭気にウッと呻いた。
「これはさ、命の次に大切にしているサーファー達が流したりして見失ったボードなんだ。だからさ!こうして新しくして、またサーファーに返すというわけ」
と最もらしく説明はしているが、こんなに大量のボードをサーファーが無くすとはとても思えなかった。そして、丁寧に乾かし、削り元の形(寸法などは少し小さくなるのだが)色を塗り、イラストを描くのは、ほとんどが、私から小銭をくすねたような少年達だった。
しかし、少年達の顔は明るい。
「まともな高収入になる仕事だからね。彼らは喜んで仕事をするのさ」
聞いてもいないのに彼はそう応えた。
まだ、日は高く蒸し暑い!
その中でもくもくと働く少年達!
しかし、彼の目は厳しく光る。「こいつらは、俺の目を盗んでサボるし、別の仕事をするのさ。だから、油断禁物!ボードの形だけは真似出来ても波に乗せやすくしたり、安定させる技術は無しさ。これが、また、よく売れる。
そして、またボードは波間を漂い、俺のところに帰るって寸法さ。
いい商売だろう」
爽やかな笑い顔で彼は説明した。聞きたくもない事を。
「これがガイド?ちょっと変!私はこんなものをみたくてあなたに大枚はたいたわけじゃないねよね」
「立派なガイドだと思うけどな!庶民の事知りたいんだろ?
ここが1番安全でわかりやすい庶民生活さ。」
「退屈?いいよ。案内してやるさ。安全地帯んな」
ガラナを一本投げてよこし、スタスタとまた、その奥に私を連れて行った。
少しスエタ臭いガラナ充満している薄暗いアーケードみたいな路地に入って行く。
「待ってよ。早く歩き過ぎ。私に合わせてもいいじゃないの!ガイド料払うんだから。」
恐怖も手伝い、私の声はヒステリックになっていた。
「わかりました。おばさん!じゃ、こうしよう」
いきなり腰に腕を回して、早足で歩き始める。明るいところだったら、手を振りほどくが、このうす汚れて薄暗く得たいの知れない場所では、いかにも安全な気がして任せた。
昼日中というのに、通りには人影さえない。彼は慣れているのか、平気であった。
続く
「旅行者だよね。」
最初に唐突に発した言葉は、それ!
「えっ?ええ、もちろん、フリーパックでよ。
日本人なの?
「旅行者に見える?少なくとも、ここに住んでいる人間」
ニヤリといたずらっぽく笑った口元から見える歯が白い。
「ここは、比較的に安全だけど、日本じゃないからさ。油断しちゃあマズいよ。
鍵はちゃんと掛けている?プライベートビーチでいた方が似合うと思うけどな?」
「ありがとう。早速のアドバイス!でも、私は、ホテルに遊びに来たわけじゃないわ。こうして、現地の空気を感じていたいために来たの。そりゃあ、少しの危険はあるかもしれない。けれど、凄くパワフルなものを感じているわ。さっきの少年もそう。生活のためだもの。仕方ないわよね。」
「バカみたいに甘いね〜。それじゃ、私を食え!と言っているようなものだな!チャライ日本人いるから、彼らは贅沢出来るって見本だな!」
「ずいぶん、失礼な言い方じゃないの!私は見ての通り若くも綺麗でも、お金持ちでもないわ。取られるものなどほとんどないわ。利用価値なんかもないわ。甘いなんて言わないで欲しいものね。落日をここでみたかっただけなのよ。悪くないでしょ?別に」
青年は、マジマジと私の顔をみた。
「うん、確かに若くも綺麗でもないな。お金持ちかどうかは判断出来ないけれどもね。
大枚1枚で、日没までガードしてあげるよ。」
「大枚って日本円の事?」
「オブコース!」
「図々しいバイトね〜!1000円5枚ならいいわ。」
「案内込みで大枚1枚!
やおら彼は椅子から立ち上がると私の二の腕を痛いくらい掴んで、海と反対方向に歩き出した。
私は内心、少しの恐怖を感じたが、助けを求めるには早すぎると思い直して、力いっぱい青年の手を振り除けた。
青年は笑った。
「大丈夫!変な事はしないから。貧乏で若くも綺麗でもない女性は金にならないからね。」
と言って、ウインクをして、街の方向にずんずん歩き出した。後を付いて行くのに正直言って骨が折れた。脚の長さの違いに少し怒りを覚えた。
途中、立ちどまって、待っていてくれる事さえ、歯痒い思いがした。
メインストリートは、たいして魅力を感じない私なのを知っているのだろうか。
しかし、方々の店からは彼を「シマ」と呼ぶあいさつが交わされて、ここらの顔である事を感じさせられた。
彼は、ある店の前で立ちどまって私を待った。
続く
色褪せた一枚の写真が、私のデスクの上に埃を被って置いてある。
ニコリと白い歯を見せた髪の長い青年は、その腕の中に宝物のように子猫を抱いている。
そろそろ、これも整理しなければと思い、思い、なかなか捨て切れずに、埃まみれになってしまっている。
外は春の陽光に満ちている。その陽光が部屋にめ降り注ぐ午前10時。
それとなく取り上げたCDをパソコンに入れ、スピーカーのボタンを押し、少し冷めた珈琲に口を付ける。
流れて来たのは、ガムランの響き。
目を閉じると、潮騒と人々のざわめき。
現地の人々の間延びするような言葉の端に浅黒い少年が私の寝顔をジィーと見ていた。目を開けるのをためらう私に、少年は弱く私の肩を揺さぶった。
そして、そばにあるテーブルの上にステンレス製のカップを置くと、おもむろに珈琲をついだ。
少年は指を4本立ててニコリと微笑む。
ハッとして起きて、ウエストポーチに手をやる。
無事だ。
安心して小銭入れを出すと、少年は、その小銭入れをいきなり私の手からもぎ取り、逃げた!
「泥棒!」
思わず日本語で避けんでいた。と、その時、少年の襟首を捕まえた青年がいた。
青年は、その少年を私の前に連れて来て、何か早口で少年を怒り、その手から、小銭いれを取り上げて私に返した。
少年はまだ、青年が捕まえていた。そして、その少年を見ると、ブルブル震えていた。
私は、サングラスをとり、少年に笑いかけて、小銭いれから全ての小銭を少年の手に乗せて、その手の平をぽんと、叩いてジエンドにした。
そして、もうひとつのステンレスカップを少年の肩から下げているカゴの中から取り出し、珈琲をつぐように仕草をした。少年は素直に、珈琲をつぐと、お釣りを返そうともう片方の手で数えた。
私は少年の手を包み込み、「OK!」と言い、少年を自由にした。
青年にお礼のつもりの珈琲を勧めた。
青年は、やはり真っ白な歯を見せて笑いながら隣りの椅子に座った。
白いTシャツが太陽光線の加減で眩しい。
ステンレスカップどうしの乾杯!
その青年が日本人なのを次の言葉で知った。
続く。
別れは、辛く切ない!
彼ら彼女らが、人間のように、成長し、社会の一員として、認められる事もなければ、至れり尽くせりの病院も介護もなく、社会的には、片隅でひっそりと生きていかねばならない存在としているのだ。
しかし、私達、人間の汚さを浄化してくれる、これらの動物達を認めねば、明日の人間は、ないかもしれないとふと思う。
彼ら彼女らの生は、純粋であり、躊躇う事などなく、全うする。
それだけに、私にとり、別れは、辛い!
保護する者としてだけならばまだまだ、理性の方が勝つと思うが、お互いに最良の関係を築くと、身を切られる辛さがある。
少なくとも、私は彼ら彼女らと一緒に生を重ねていると確信している。だから、学ぶことも多いし、受ける励ましも多い。
私の精神を支えてくれていると言っても過言ではない。
空になれる瞬間を学んだ。
自己を外に置き、相手の事を見る。
大切な事ではないかなと。
まだまだ、見送りは、続く。
ここにいる全員を見送らねば、私の安心は、ないし、また、見送りという辛さを私はこれから、心して生きねばとまた、思うのである。
その後、割りに近くにある
ネコ達の口内炎とは長い付き合いの私は、それぞれの猫がどのような状態の時に連れて行ったらいいか、大体把握出来ていた。
エイズ口内炎は、だいたいのエイズ猫が最初発症する病気であり、これ以上進む事を恐れる私は、まずは一匹づつ観察を怠る事が出来なかった。
新しい医者には、カートを使いバスで移動した。しかし、それも一匹ならば可能だが、一度に3匹という方が効率的なために、主治医の時とのバランスが難しかった。
しかし、ブッチは相変わらず、口内炎を除くと元気で、明るさを私にくれていた。
2011年の11月頃、ブッチのあのメゾソプラノの声が枯れて来た。
しかし、それも時たまで、私が外出から帰ると待ってましたとばかりに玄関にかけてきてワォンと鳴くし、好物のカニカマや、マグロの刺身や、鶏のササミをおねだりした。
そして2〜3週間後、今度は、コンコンと軽い咳をするようになり、風邪かな?エイズは、治りにくいので、主治医に連れていき、インターキャットなどもしてもらい、何とか一応元気になった、、、気がしていた。
しかし、もう、通常の生活では声が出なかった。
いつものブッチではあったが。
その頃、マーブルが血を吐き、極端に痩せて来ていて、チイコやブッチよりもずっと重症だった。
目が行き届かなかったのだろうか?
チイコが、急に体調を崩した。急激に思えた。
世は師走になってもいた。医者には3匹一緒だった。もちろん最高の処置のため、主治医に通った。
その頃はバスケに入れると、ブッチはかすれ声だが、抗議の声が出ていた。
チイコは、やはり正月を持ち越す事が出来ずに4日逝ってしまったが、ブッチは、まだまだ元気な様子で私のところに甘えて来ていた。
それが、急激に悪くなっていったのは、1月も終わりに近づく時だった。しかし、ジャンプ力などはまだ普通にあり、私が寝ると枕元にやって来て、甘えるのだった。私は、一日、グッタリと疲れ、正直迷惑だった。
ブッチはひとしきり甘えると自分のベッドにジャンプして戻るのだった。
しかし、その日は近づいて来ていた。私の耳元で咳込む!
甘えようと顔を横にすると咳込む。
それに口内炎の口の臭さだけではなく、ブッチの身体から死臭が漂って来るのであった。ブッチ、動かなくていいから。お母さんにあいさついいから。と何度も身体を摩り、話しかけて。明るくなるのを待って、近所の医者に直ぐに連れていった。レントゲンの結果は、気胸が酷く、もう治しようがなかった。
もう、楽になってくれればいい!レンタルで、直ぐに酸素室を借りた。
正確に言えば一日もなかった。酸素濃度を強くしても、少し動くだけで咳込んだ!
私はブッチを抱きしめたかった。私の体温で温もりを与えたかった。しかし、手を入れるとその手に頬擦りしようとしてまた咳込む。
辛かった。
先生に来てもらい、楽になる方法を選んだ。
診察台だったら、なんの苦もなかっだろうが、大きな先生には床に這いつくばるようにして注射はやはり無理だったろう、、、
少し本気で暴れて、私の腕の中でグッタリと全体重を預けた時に全てが終わった。
ブッチと過ごした年月もピリオドを打った。
まだまだ、思い出にはほど遠い!
そのカラスは、多分、当家の一員として居たかったはず!
いつも一羽で来て、猫達が残したカリカリをついばみ、猫用の水を飲み、私をジッと見つめている様に、私は情が移りそうで、自分が怖かったのだ。
ブッチに喉を噛み切られて、私は心配で仕方なかった。そして、もう一つの心配は、ブッチが復讐されないだろうか?だった。
杞憂に終わりホッとした。カラスはボスではなく、一匹狼であり、また、声はよく出てはいないが命に別条はなかった。
2〜3日後、首を傾げながら、私のところにやって来たときは、不覚ながら涙がこぼれた。犬走りの端っこをピョンピョンと渡り、大丈夫だよとでもいうような仕草に。
私は、効くかどうかわからなかったが猫用の化膿止めをほんの少し、カリカリになすり付けてやってみた。私の手の平からつまむカラスが愛おしくてならなかった。
しかし、どこかでそれを見ていたのだろうか?
ブッチがヤキモチをやいて帰って来なくなってしまった。
あちらを立てれはこちらが立たず!
参った一時期を過ごした事もあった。
いつ頃だったろうか?
ブッチは、寝所を私の部屋の方に移動して、あまり離れなくなってしまったのは。
その頃から、口内炎が出て来ていた。痛みを堪え、食べられる量は、日に日に少なくなって行く。
たまらずに中に引き入れ、約2週間は、家の中が慣れずにギャオスカと鳴き叫んでいた。ブッチの声は、メゾソプラノでよく通る。割りに防音はきいている家ではあると思うが、両隣りがマンションで助かった。
さて、家に慣れたブッチは、男の子特有で甘えん坊だった。
しかし、私は、タマ優先なので何かとブッチに寂しい思いをさせていたかもしれない。口内炎は、掛かりつけの医者では一週間くらいしか保つ事が出来ずに、時間とお金が大変だった。割りに体力があり、腎臓の数値もまあまあだったために、探し求めて、ちょっと遠くの医者に変えた。
移動は、最初、電車を利用した。カートにブッチを入れたバスケを括り付け、移動するのである。
ブッチが乗り物が好きな事がこの時にわかった。遠くまでのために電車の座席に座りバスケだけを私の膝に置き、バスケの窓を開いて風景を見せるのである。ブッチは過ぎ去る風景に目を見張り、感嘆の声を上げた。「ワオ!ワオ!」と。そして、外を見せておくと静かで鳴き止むのだった。
何が楽しいかと言えば、このブッチとの小旅行だった。ブッチも私を独占出来る、わずかな旅を楽しんでいるような気がした。
ブッチは、もう、口に引っかかるものは無理だった。食べ辛くなる時は割りにわかりやすかった。丸飲みしているカリカリさえ、キツくなって、食べようと頑張っても、入り切らない。だから、そんな時には、私の手を水で湿らせてカリカリに少し水分を塗るとつるんと飲み込めた。
しかし、びじょびじょにしてしまうとかえって口の中に貼りつき、苦しむので加減が難しくもあった。
それも食べにくくなった頃にまた連れて行く。
だから、最長3ヶ月くらい、保つ場合もあった。
だが、その移動も、私にとって2年が限度だった。次々に体調を崩す子が増え、何時間も、留守にする事が不可能になってしまったのであった。
続く
それで何回も真っ黒な画面になってメゲるという繰り返し(~_~;)。
成長ないな〜と自分が嫌になってしまうという負の連鎖!
さて、気持ち切り替えて、
まだまだ、思い出には遠い話しだが、やっぱり記録として書こう。
ブッチの死は、突然やって来て、私の心を揺さぶり続ける。
チビブチ母さんの忘れ形見、みなしごブッチは、母さんや兄弟の分を全部引き受けて、超明るい子に育った。
回りにいたオネイやハイエナの優しい母性にも恵まれて、ほんとに天真爛漫として成長したのだった。
忘れはブッチのテーマソングを口ずさむ事が多かった。古い子ども向けのアニメソングを、ブッチと変えて!「ゆけゆけ♪ブッチ♪みなしごブッチ♪飛べ飛べブッチ♪みなしごブッチ♪」密かなる私の応援歌でもあった。
その頃の同級生は、ブッチ、パンダ1号、ウッキーだった。
一番、オットリとした子ども達だった。なにしろ、母代わりの連中が優しく包み込んでくれたからであると確信している。
その仲良しの同期で、外猫生活させているのはブッチだけだった。
それだけ丈夫で元気のいい猫だったからであった。
また、外交的な性格は、近所の人気者でもあった。
手術しているものの、男っ気があったのか?はたまた、三姉妹とソリが合わなかったのか?
一区画だけれども、ブッチの縄張りみたいになっていて、時間が来ると巡回するのが日課だった。だから、ブッチは近所の人々によく話しかけられている事を目にした。
「おっ!ブッチ、また巡回かい?」とか「ブッチ、おはよう」とか「ブッチ!ご苦労さん!」とか。
ブッチもまた、呼びかけられると必ず返事を返して、可愛い女性には、お尻向けてご挨拶の催促をしたりと、なんかいい雰囲気がそこかしこに広がって、猫嫌いの人々さえ、ブッチには何も言わなくなっていた。
ブッチのファンという女性はよく当家にブッチを訪ねて来ていた。
私が呼びかけなくても、そんな時にはブッチは自分からかの女に会いに来た。
そして、クルリとお尻あげて、尻尾コチョコチョご挨拶をかわした。
また、ブッチは、危険を察知するのに優れていたように思う。
当家の前には6m道路があり、メイン道路の二つ裏側になっているため、渋滞回避のための出退社時には、割りに車の往来が激しく、また当家はちょうど坂を上がったところにあり、車はスピードが出るところでもある。
そんな時には、ブッチは、絶対に道路を渡らない。
そして、渡る時には、絶対左右を確認するのであった。
これは、ブッチが小さい頃、ウッキーの片割れのキイが交通事故死した事のトラウマかもしれない。
そして、道路向かいにゴミ捨て場所があり、決められた曜日に朝早くから出されるゴミにカラスが群がる。
その頃はゴミを出すマナーの悪さ多さに辟易していた。
そして、カラスに突かれ、ゴミが散乱すると猫達の悪さにされるのが常だった。私がだから、掃除を買ってでなけろばならず、なんか割り切れずにいるのをブッチが見ていた。そんなわけないよね。と思う一コマがあった。
生ごみに群がるカラス軍団をブッチが追い払うのを見たのだ。
しかも、その群のボスらしきカラスの喉元に噛み付いたのだ。
他のカラスはパニックになりチリジリに逃げていった。
「ブッチやめろ!離してやれ!」
私は何時の間にか叫んでいた。
続く
そんな3姉妹にも、黄昏は間違いなくやって来た。
外生活は、やはり厳しく、発症してはいないが、14〜5才あたりから、筋力はめっきり落ちて来る、いわゆる老年期に入り、エイズ保菌者に取り、これ以上は、外におくわけには行かなかった。
最初から家の中に入るのをためらわないシイちゃんを入れて、油断している振りをするマーブルを次に!チイコは一人ぽっちが寂しいのか、最後にすんなりと入った。
そして、内猫として一番早く落ち着き慣れたのは、心配したチイコであり、予想外に泣きわめいたのはシイちゃんだった。
チイコは、ほんとにお利口な猫で、私の手を煩わせず、私にしたら、あまりかまってやる事もなかったのでは、と、少し悔やんでいる。
この3姉妹は、オネイやハイエナなどと違い、まだまだ大丈夫そうに見えた。少なくとも、2〜3才は若い筈であり、マーブルなど、おもちゃにまだまだ興味を示して、遊ぶからだった。
ハイエナ、オネイ、達が他界して、一年が過ぎようと、する正月三ヶ日を過ごし他界するなど、夢にも思わなかった。
そして、マーブルの方が、ずーっと早くに発症して、重症なのに、チイコは、痩せも目立たずに逝ってしまった。
2011年12月30日から、動物病院は休みに入った。
休み前は、私は、焦る曜日の連続を過ごした。
当家の居残り猫達は年寄りばかりで、ましてや、病気を持って居ない者は居ないからだった。
ましてや、周囲のザワザワに猫達は、直ぐに反応して、落ち着く事が出来なくなってしまう。
非常に精神が敏感な動物なのだ。
免疫力の落ちた我が家の猫達は、一日平均、5〜6匹、年末年始休みまで、医者通いをした。
そして、重病の猫、マーブルとチイコは特に気を揉んだ。
チイコはどうしても自力で食べる事が出来なくなってしまっていた。
毎日、皮下点滴と注射が必要だった。
しかし、年末年始休暇は、チイコと私にとっては、地獄への入り口となっていった。
チイコにとっては、口を開ける事だけでも地獄だったはずである。しかし、無理やりにでも、水分だけでも、取らない事には、保たないし!苦しい死に様になってしまう。
それでも、チイコは耐えて、私のスポイトを受け入れてくれた。
三が日がこれ程、長く感じられた事はなかった。
正月3日、チイコはもう口を開ける力も無く、閉じ切ってしまっていた。
4日、在宅を確かめて、急ぎ、医者にいった。
時、すでに遅く、チイコは、医者に着くやいなや、息を引き取った。
チイコは最後も静かに行儀良く逝ってしまった。
チイコが当家にやって来たのは、マーブルが当家の猫達に黙認された数日後にシイちゃんと共にだった。
かの女らは、三匹で助け合って自分の居場所をものにした、三姉妹であった。
三本の矢の話しそのものを体現しているような猫達だった。
チイコは、マーブルと反対の性格で、マーブルがお日様としたら、月のようなタイプだった。だから、お互いに少し距離を置いているのだが、時にチイコは、マーブルにペタンと付く事があり、マーブルから、嫌がられる場面があった。また、マーブルも、同じようにしてチイコが、あれっという顔をした事もあって、いつも二匹の間にシイちゃんがクッション代わりにいるという、なんとも愉快な姉妹だった。
ある時、シイちゃんが、見えなくなり、私と二匹で探し回った。
普段は中の悪い二匹だが、こんな時には協力し合うのだ。
シイちゃんは、バイクに軽く跳ねられ、ショックで隠れていたのだった。
二匹の必死の助けは、近所の人が感動して教えてくれた。当家の猫アパートに保護するためにシイちゃんを真ん中にして両側で支えるようにして、励ましの鳴き方をしながら運んで来たとの事だった。
私と共に生活している猫達は、老年に入り、ほとんどが病気をしている。
そんな中でも、割りに、平穏な時があり、そんな時には、気を抜くために、ちょっと郊外散歩する。
友人達と会うのも楽しいが、やはり時間を気にしなければならず、また、自分だけ、楽しい思いをしている事に引け目を感じてしまうから。
郊外散歩は、自然をお腹いっぱいにする事が目的である。
草木を愛でる事よりも、そこ辺りの空気感に浸る楽しみを味わう。
私の短い時間では、人里離れたところまでは、なかなかいけない。
当然、農家の人々や漁村の人々が昔から大切にしている畑や田んぼや小さな港や、海などに限られてしまう。
しかし、私は、かえって、そんな場所が好きなのである。
自然を相手にする仕事は厳しいし、辛い事が多いだろうと思う。
だが、それだからこそ、
そこにある自然との共存には、目を見張る美しさと穏やかさを伴った空気が流れている。
私達の先祖の多くは、開墾し、耕し、作物を作り育てる人々ではなかったのか?
だからこそ、季節を読み、空気を感じて、待つ術を会得したのじゃないだろうか?
日本は、四方を海に囲まれている。魚を得るためには、舟を作り操る技術。そして、一人よりも、協力し合う事により、より多くを得る。
自然を読み、鳥や、海獣などの動きを読み取る技術が必要だったからこそ、動物にも優しくなれたのではないだろうか?
自然と渡り合える事が、一方では自然を畏怖し、その強い力を敬い、祭り上げる事で、人間は、不安を消し去る事も出来たのではないだろうか?
想像は果てしなく広がる楽しい散歩である。
時に行き交う人々の面は、穏やかであり、日にさらされた皮膚は健康に見える。
海に迫り出した山があるこちらの散歩はだから飽きる事はない。潮風を受けた柑橘類は甘い。その柑橘類が斜面いっぱいにたわわに実る道は裕福である。
坂道は曲がりくねり、石垣を両側に持っている。
時々現れる家の回りでは必ずと言っていいくらいに犬がいて、部外者に向かって吠える。
そして、石垣の上では、猫達が、日光浴を貪っている。
家々のところには大きな雑木がそびえていて、小鳥の冴えずりが聞こえる。
一瞬、常世に来た錯覚を覚えてしまう散歩は、短いが、確かに精神の洗濯をしてくれる。

